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裁判員裁判スタート [シルバーウィングでGO]

 裁判員制度が始まった。66歳の女性を殺害した近所の男性を裁く裁判である。今までなら、かなり長い期間にわたって行われた公判が、たったの4日間で判決に至った。
 この裁判では、被告が殺害したという事実関係については争点はない。目撃者、本人の自白、凶器などの証拠品から、被告が犯人であることは間違いない。
 問題は犯行の凶暴性や残虐性、計画性などの他に、被告と被害者の関係などがどのように認定されるかによって、どのような判決になるかということである。殺害された女性の性格や日頃の言動によって、犯行が触発されてしまったかどうかについては報道される内容だけでは軽々に判断出来ない。犯行が行われるに至った経緯と犯行の状況についての判断は、公判を通じて全てに関わった裁判官および裁判員以外は責任を持って論じることは難しいだろう。
 ともあれ、最初の裁判員裁判は大きな問題もなく順調に終わることが出来た。おそらく、今まで反対の考えを持っていた人たちの中にも、裁判員制度を見直したという人もいるのではないだろうか。いや、そのような人は、かなりの数に上るだろう。
 しかし、僅かひとつの裁判員裁判で「裁判員裁判は問題なし」と評価するのはまだ早い。例えば、「和歌山毒物カレー事件」のように、物的な証拠がなく、状況証拠の積み重ねで判決を導かねばならない重大事件の場合、果たして今回のような短期間で判決が下せるものだろうか。また、国民から選ばれた裁判員は有罪・無罪の判断が出来るのだろうか。
 裁判員として公判に臨むに当たっては、判事や裁判所の事務官から「有罪の確信がなければ無罪」という説明を受けて審理および審判に当たるだろうが、それでも、一個の人生を左右する判断を、僅かな期間の審理で出来るとは思えない。裁判員は、かなり悩むのではないだろうか。
 冤罪事件は後を絶たない。足利事件で逮捕されて無期懲役が「確定」していた菅家利和さんのような「被害者」が再び出ないという保証はどこにもない。そんな難しい事件に関わったとき、裁判員は悩み苦しむだろう。自分が有罪と判断して、万が一、後日それが冤罪だったことが分かった場合、本人が引きずっていく呵責の念の大きさは想像を絶する。

 もともと、裁判員制度は民間の常識ある考えを、専門知識に凝り固まった法曹の場に生かそうという考えだった。初めてこの考えが出たときに、「なぜ、自分たちが民間の人たちの感覚を身につけることが出来るように努力しないのだ。まずは、法曹界の内側の改革が先だろう。」と思った。自分たち専門家では出来ないから、民間の考えを生かしたいなどとは、話が逆ではないかと思っていた。判決に当たっては、最低一人の裁判官を含むという規定があるが、それでも総数としては3対6で民間の裁判員の判断量の方が大きい。少なくとも、「あれは、国民の参加の下での判決でしたから」などと、司法の失敗の隠れ蓑として使われるようなことがあってはならない。

 このように、様々なことを考えると、人を裁くという、人間に与えられている最も重い仕事を、ある時突然、「くじで当たりました」と言われても、かんたんに「ああそうですか」とはいかないのが普通だろう。
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 しかし、現実には裁判員制度はスタートした。いつ、自分に「赤紙」か届くか分からないのである。裁判が終わったあとの裁判員のみなさんが、意外に明るい様子を見て安心したが、いざその時、自分がその務めを果たすことが出来るかどうか自信はない。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/bunkoh/
 
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